2008年12月17日 (水)

幸せを見つけるために

昔々、まだ人がこの世に現れない大昔の時、御天親加那志(うてぃんうやがなし)という世の全ての神様が、3使長という宇宙の神、天の神、地の神を呼び、「幸せを求め、幸せになることができる人」を創りなさいと言われました。

3使長はこの時、地球という星を創っていましたので、そこに人を創り住まわせ、そして人がその星で豊かで幸せになれるよう計画をしました。3使長は御天親加那志の心「幸せを求め、幸せになることができる人」の為に、先ず人を創る前に地球という星に住む人を守ってくれる人の幸せを指導する神々を任命しました。その神々は「土地の神」「水の神」「海の神」「山の神」「作物の神」などと呼ばれ、多くの地域に住むであろう地域独特の神様となっていくよう配慮されました。

そして、いよいよ人を創ることになり、3使長は任命した多くの神々を集められ、話し合いがつづけられました。そして、大事なことがいくつか決められました。

一、「幸せを求め、幸せになることができる人」は自分たちと同じ神である必要がある。

一、ただ神と異なるところは、人は幸せを自ら求め手に入れる計画することが大事である。

という2つのことから、神々は人を神様に似せて創ることになりました。

 しかし、神々の話し合いの中で一つの難問が出てきました。それは、御天親加那志の言われた「幸せを求め、幸せになることができる人」の幸せをどこに隠すかということでした。なぜなら、人が幸せを簡単に手に入れることができると、そこで「自分は神」だと言い張り、争い、奪い合い、人の世界は朽ち果ててしまうという心配からでした。

すると、山の神が言いました「高い山を作り、そこの山の頂上に隠そう。高い山は簡単に登れないので、幸せを隠すにはもってこいの場所だ!」

すると海の神は、「いや!いや!人は我々神と似せて創るので、きっと高い山を征服する力を持ち、簡単に幸せを見つけるに違いない。このように簡単に幸せを手に入れることは、結局人をダメにしてしまい、御天親加那志の心ではなくなってしまう」

そこで、地の神は「地中深く隠したらどうだろうか、山の頂上よりは見つからないだろうと言いました」

またまた、海の神が言いました「その案は私も考えてみた、海の深いところに隠そうと・・・、しかし、神に似せて創る人はきっと深い海や地中深い場所へも行ける道具を作り、やすやすと手に入れてしまうかも知れないと・・・」

森の神も言いました「そうなんだ、人はきっと茂みの深い森に隠してしまうと、幸せを見つけるために神が創った森を根こそぎ台無しにしてしまうかも知れない。きっとそのような力を身につけるでしょう。なぜなら、人は私たち神と似せて創るのですから・・・」

しばらくして、商売の神が提案をしました「宇宙の神にお願いをし、宇宙に多くの星を作り、その一つの星に幸せを隠したらどうだろうか?いくらなんでも宇宙の果てなら簡単には見つからないぞ!」

すると即座に、森の神と水の神が言いました「ダメだ!人はきっと宇宙の果てまでもたどり着ける力を見つけ、それを手に入れると幸せを商売に使ってしまう。それは御天親加那志の心ではないはずだ!!」

商売の神は「そうだな~、商売は人の幸せの一つの道具なのだから・・・」と言いました。

 しばらくの沈黙の後に・・・、森の神が小さな声で「深い茂みの森の中でなく、人の心の奥に隠したらどうだろうか・・・・」同時に、水の神も言いました「そうだ!人の心の奥に隠すと、清らかな水のような心にならないと、きっと観ることができず手に入れることができないはずだと」すると商売の神も言いました「商売も幸せの一つの道具として使えるぞ!」

 そして、3使長を交えた神々の会議は決着しました。幸せを一人一人の心に中に隠したまま、神に似せて人を創られ3使長は御天親加那志のもとに帰られました。

地球と人、そして宇宙はそれらを守る神々に委ねられ人の長い旅が始まりました。

 長い時間の旅で人は争い、憎しみ、協力、文明の発達、矛盾、喜び、妬み、いろいろな体験をし、人の命はそれを受け継ぎながら心の奥にある幸せを求めて何万年も旅をしました。

 御天親加那志は3使長を呼び、心を痛めて言いました「もう、そろそろ人は幸せを見つけてもいいのではと・・・」3使長も不安になりながら、言いました「もう、そろそろだと思います。あと数百年の少しの時間だと思います」と・・・・。

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2006年1月18日 (水)

共存共栄

 国際社会や企業間で「みんなが仲良くやっていこう」という意味で共存共栄という言葉がありますが、この言葉の意味は強者が弱者を支配する方策ではないでしょうか。つまり各テリトリーや力の配分のルールを決め、強者がこれ以上自分の領域を侵さないように縛り付け、弱者が時間経過の中で弱っていく作戦だと思うのです。

 ですから、弱者が強者の権威になるようなことをするとルール違反として成敗するのですね(大義名分)。そして、弱者は強者の影に隠れ、その共存共栄が続けば続くほど強者に属化していくのでしょう。

 共に存在し、共に発展していくとは強者・弱者という概念のないところから思考する必要があるのでしょうね。本来人間が持つ「競争・争う」を昇華していくには何(考え方も含め)が必要なのでしょうか。

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2005年12月21日 (水)

青春の詩(サミュエル・ウルマン)

ここにある訳詩は、私の先生の訳詩です。多少ゲーテ風ですが、いい感じです。

青春

サミュエル ウルマン  

青春とはある人生の或る時間をいうのではなく

心の或る状態をいうのだ

それは逞しき意志、優れた想像力、炎ゆる情熱、

臆病を退ける卓越した勇気、安易な気持ちをふりすてる冒険心

この心の状態こそ青春なのだ

歳月を重ねるだけでは、人は老いはしない

理想を失う時にのみ、人は老いる

歳月は肌に、そして情熱の喪失は魂にしわをきざみ込む

苦悩、疑惑、自己不信、恐怖、そして失望

これらのものは、長い長い歳月のごとく、人を老いさせ

伸びようとする魂までも朽ちさせる

たとえ歳は七十だろうと、十六だろうと

だれにでもの心にある驚きへの関心

夜空にきらめく星と

その輝きにも似た事物や、思想の甘美な驚き

ことに処する大胆な挑戦

子どものように求めて止まぬ探究心

これらこそ人生の喜び、人生の楽しみ

人は信念と共に若く、疑惑と共に老いる

人は自信と共に若く、恐怖と共に老いる

人は希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる

大地より人々より、そして神より

美と歓び勇気と雄大

そして力のメッセージを心で感じる限り

人は若い

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2005年10月28日 (金)

青春

 私の先生が「若いときには苦労は買ってでもしろ! というが、買ってまではしない方がいい。生きているだけで苦労なのだから」と。だからもっと楽しい人生を送りたいものです。

最近、いろいろなことが起こってきます。人、仕事、人生、自分、家族、生活など。その中で自分のあり方、そんな時久しぶりに「サミュエル・ウルマン」の青春の詩を見ました。私流にしてみました。青春とは何か特別なことでなく、また一過性の時間でなく、人に認められているのでもなく、ただ自分の人生を生き抜いていることなのかも知れません。

青春とは心の状態を言うのだ。

喜びを分かち合い、

苦しさに立ち向かい、

そして、哀しみを受け入れる、

それが生きていること。

人は心で感じている限り、青春なのだ。

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2005年10月27日 (木)

少し面白い話し(1)

「横断歩道の信号機での出来事」

 おじさんが横断歩道の青信号で、車の運転手に「申し訳なさそう」に挨拶をして旗を出し横断者を渡す。でも別な人は歩行者信号が青になると「車をにらみ」旗を出す。そして、横断者を急かして渡し、「車に向かって一礼」する。

 観ていると、車の運転手に申し訳なさそうに挨拶をして、旗を出すのはウチナンチュのような気がします。そして車をにらみ、歩行者の横断を促し、車に一礼するのはヤマトンチュのような気がする。最近、ウチナンチュが少なくなってきたのだろうか。

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2005年10月25日 (火)

初めての記載(hiroshi)

今日、平成17年10月25日(火)からいろいろな意見や考えを記載します。このブログを読んだ方のご意見大歓迎です。そして議論、討論ができればうれしく思います。

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